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knanaoのメモ

たんなるメモ

朝井リョウ『何者』〜人を嘲笑うな、ではなく、人を嘲笑わなければならないほど自分を否定しないで、という話

浅井リョウの『何者』読んだ。

 

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【動機】

生粋の文学青年であった私が社会人になってから読む小説はせいぜい2、3冊になってしまった。

そしてその年2、3冊の内の貴重な1冊にこの本を選んだのは、かねてより患っていた就活コンプレックスのためだ。

私は就活をしなかった(できなかった)。

なぜできなかったのか?

嫌だったからだ。

大学の3年生だったか4年生だったかの時に、SPIの分厚い問題集を見ただけで「あ、これは私には無理だ」と悟った。無理なのでしなかった。それだけだ。

今は企業に勤める一介のサラリーマンであるが、それすら大学院2年の暮れにブラブラしていたら「弊社に遊びに来て下さい」と言われたのでそうしたまでだった。

転職はいずれするだろうが、その時も私はきっとこの時と同じように『ノリ』で決めてしまうのだろう。履歴書を書いてスーツを着て面接対策をするなどという芸当は逆立ちしたってできない。

 

私には幼い頃より「嫌なことを我慢してする」ということができなかった。

一方でやればできるだろうとボンヤリと信じていた。

しかし『就活』にあたって、私は就職のような今後の人生を決定するような重大事においてさえ、「嫌だ」と思ったらテコでも動かない「自分」をイヨイヨ認めざるを得なかったのだ。

 

そういうわけで人知れず就活コンプレックスを燻らせているのである。

そこで浅井リョウの『何者』である。

臨場感を絶賛される朝井リョウの『何者』を読むことで、手っ取り早く就活気分を味わおうという魂胆であったのである。

 

【感想】

面白い!人物はとてもリアルで、描写も丁寧だった。

これは私のヘンケンであるが、男性作家は人物描写が下手というイメージがあるが、朝井リョウには全く当てはまらない。全体的に非常に愛のある優しい文体だった。

私がキャリセンにも行かずマイナビにも登録せずESも受け取らず、ブラブラしていた時に同期たちが何をし、何を考え、悩み、行動していたのか、とても丁寧な描写で綴られており、とてもあったかい気持ちになった。

 

しかし「あったかい気持ちになる」というのは、この本の健常な楽しみ方ではないのだろう。

この本の醍醐味が「主人公の目線で物語を読み進めて行った読者がやがて最後の30ページで『自分が何者であるのか悩める内の一人』でしかないことを突きつけられる」ということにあることくらい私のようなものでもさすがにわかる。

 

残念ながら私はこの最後の30ページに全く驚愕することができなかった。

なぜならこの本を読みながら一度も主人公の視線には立てなかったから。

意識高い系、クリエイター系、ツイッターで語る系、主人公はそれらを冷ややかに見るが、正直私にはそれらの何がそんなに気に入らないのかよく分からない。

皆悩めるのは同じだ。ツイッター意識高いことを書いたからと言って何がどう困るわけでもない。何がそんなに気に入らないの?

更に言えば冒頭からすでに主人公がインターネット上でよからぬことを書いてることは明々白々だったので(朝井リョウには隠す意図もそんなになかったであろう)、終盤で明かされても特に何も驚くことはない。

 

一方で就活という謎のイベントに主人公のメンタルがガタガタになり人の粗探しでもしなければやっていけないという気持ち自体は「理解」できる。

クリエイター系が就活をバカにするのも、意識高い系が名刺のような自己紹介をするのも、仲のいいフリをしながら相手を牽制し心のどこかで他人の失敗を望んでいることも、私には非常に自然なことに思える。

人間は一面しかない単純なものではなくたくさんの顔を持っている。

いい人の裏側に悪い人があったからと言ってその「悪い人」だけがその人の本質ではないだろう。いい人も悪い人も含めてその人自身だ。悪い面だけを取り出してそれこそが本質と呼ぶのはせっかちなおっちょこちょいのすることである。

 

終盤でリカちゃんが「私もあんたも性格が悪い」と言い出したのは少々悲しかった。

もちろん綺麗な側面だけではないけど、この物語の登場人物はそれぞれ悩み、葛藤し、努力しているのに、それを「性格悪い」などという狭量な言葉でまとめられてしまうのはとても悲しいことだ。

世の就活生は友達の内定先がブラック企業かどうかを検索して心を慰めて、それを自分で「性格が悪い」と思っているのか。同じ状況になれば私だってそうするだろう。誰だってきっとそうする。そんなことで自分を否定しないでくれ。

 

特に構成のないぐちゃぐちゃな感想であるがもっと広い範囲での話をしよう。

そもそも私はTwitterFacebookを見て「この人痛々しい」「この人自慢ばかり」「見てると疲れる」といって人をあざ笑ったり批判する人々の気持ちが全くもってさっぱり分からない。

痛々しいのは頑張ってるからだし、自慢して認められたいのは私も同じであるし、見てると疲れるのであれば見なければいいだけである。

もちろん人をあざ笑ったり批判する人を否定するつもりはない。単純に私には理解ができない(そして理解したいとも思っているのでこの辺解説してくれる人がいるならしてほしい)。

 

多分この本を読んで「面白い!共感する!」というのは、TwitterFacebookを見て、人を嘲笑ったり批判する人々なのである。

そういう人々は、まず主人公の目線に違和感なく収まるだろう。だからこそ終盤の30ページに「驚愕」できるのである(恐れながら私にとってはそんなものは何の驚愕でもなく冒頭から明らかにされていたことだった)

 

多分であるが、そういう人はいつも自制しているのだろうと思う。痛々しくならないように、自慢げにならないように、人を疲れさせないように。だからこそそれらを自制(していないように少なくとも彼らにはそう見える)人間に会うと、嘲笑わざるを得ないのである。だって自分は我慢しているから。

大丈夫。認められたい、褒められたい、そういう気持ちは誰の中にもあるものなので、否定しなくていいし、隠さなくていい。むしろ私はそういうのをドンドン見ていきたい。認められて、褒められて、ニコニコしている人間というのは、本来はハタから見ていてとても気持ちのいいものだと思うからだ。それを否定して、人を嘲笑うくらいなら、痛々しくたって何の問題があるんだ。

 

感想はマアそのくらいである。

なんかよく分からんけど皆頑張ってるんだから自分でその頑張りを認めてあげてほしい。

 

あと文庫本の解説であるが、よくもマアこんなつまらない文章をこの力作の後に載せれたものだと感心した。編集者はもっと他にマネジメントのしようがなかったのか。

『何者』は最後の最後に「第三者」として君臨していた主人公が実はその他の有象無象と大して変わらない、それどころか自分自身を認めることすらできない弱虫であったことを突きつけられるところにこそおもしろみがあるのだろうが、この解説者は本書を絶賛しながらなおもこの「第三者」こそが他より「優れている」前提で解説を書いている。本書を絶賛している人がこのような頓珍漢な「解説」を書いてしまうのであれば、本書はどうやら酷く低い次元で評価されているのだなという印象を受けた。

この三浦大輔とかいう人は(私にとっては)文章がめっぽう下らないだけであってきっととても優れた演出家なのであろうが、Twitterで承認欲求(?)を満たすために自分を演出する人々を批判する自分に対して「そんなのどうでもよくないー。楽しければそれでいいジャーン」というギャルを「知性がない」というように形容するほどであるから、きっとこの人にとっては私も「Twitterで承認欲求を満たすために自分を演出する人々を批判すべき理由がわからない馬鹿」なのであろうし、あるいは「Twitterで日々承認欲求を満たすために自分を演出する俗物」なのであろうが、とにかく書いてる内容が支離滅裂でありまずはその自分のとっちらかった文章の方を恥じることから始めてほしい。

私のような素人がブログに好き勝手に書いてるわけではあるまいし。下らないものをわざわざ載せるな。つまらないものを読んでしまったよ。

 

おわり