knanaoのメモ

たんなるメモ

文系は素晴らしいという話

〜これはインターネット怪文書である〜

 

これを書く動機

先日下記のようなtweetをした。

 

「人文学の冷遇も、結局のところは研究者が、自分たちがどんなに面白くて意味のあることをやっているか、きちんと表明することを怠ってきたことの結果だと私には思えた。」

 

このことについて、私が何故このような言及をしたのかを、文系学部の院生であった頃のことおよび大学を辞めてエンジニアに転向したことを踏まえて簡単に書きたい。これは前回書いた「私は数字が怖いという話」と内容がリンクするものである。

はじめに断っておきたいのは、情報が溢れる現代において、本当に読むべきことや書くべき価値のあることなどほとんどないと私は思っている。そのため私がパブリックにすることを目的として文章を書くことはほぼない。しかしごく些細な場面で当然のように発せられるアンチ文系ーーこれらは無邪気なだけでなく殆ど悪意に満ちているーー言説に私はいささか辟易させられているし、私のような立場で言及できる人間もやはりあまりいないのではないかと思い、発信するものである。

 

私は誰か

私はかつて地方の大学で文系学問の研究をしていた者であり、現在は都内のIT企業で主にデータをサイエンスしている。元々の研究分野は哲学であり、一般的にはもっとも人類にとって役に立たず場合によっては社会不適合者と見なされる領域である。なお、ティピカルなキモオタをイメージしていただければ大体その姿が私と思ってもらって差し支えない。

 

前提について

表題について、文系学問は就活でも役に立つとか、就職率がいいとか、年収が高いとか、そういう方面から言及するつもりはない。というか就活をしていないのでそんなことを聞かれてもわからないとしか答えようがない。私が問題にしたいのは、それ以前の問題であり、人間が生きていく上でより巨視的な視点に立った時の問題である。

また、この文章は「だから文系学部は必要だ」とか「文系の冷遇許すまじ」といった主張をするためのものではない。私はここで政治をするつもりはない。ただ世間一般に言われているよりは、楽しく、役に立ち、そして人生を豊かにしてくれるものであると伝えたいだけである。

しかし付け加えておきたいのは、私が就職したのもエンジニアをやっているのも、すべては、それこそ文系分野の学問的問いを執拗なまでにーー実際にそれは病的ですらあったと思うーー追求し続けた結果だということだ。何かに真剣に向き合い続けて、それによって身につくものが全くないものなどあり得ない。私にとってはそれは学問だった。

 

文系のなにが素晴らしいか

まず率直に問いたいが、本を読み、理解に努め、咀嚼し、さらにそれを自分の言葉にし、かつ赤の他人に伝達できる人間が、はたしてどれだけいるというのか。日本人の識字率は素晴らしい。殆ど100%に近いのではないか。それにも関わらず「本を読む」ということは、単に「文章を目で追って言葉の意味を理解する」より遥かに高い技能が要請されることなのである。
例えば単語ひとつとってもその意味するところは多様である。「風」といった時、それは文字通り大気が流動する「風」を意味すれば、人生の航海を後ろから盛り上げてくれる「風」を意味することもあり、はたまたそれは私たちの行く手を遮る「風」ですらあり得るのだ。この語彙は文章を読めば読むほど多彩になり、私たちの理解を高めてくれ、かつ私たちが私たち自身を表現する言葉を豊かにしてくれるものだ。
この語彙は、時代によっても地域によっても意味は大きく異なってくる。源氏物語などは当時を代表する娯楽小説だが、現代語訳でも理解が難しいとは感じないだろうか。それは時代背景が今とは異なるからである。ボッカッチョのデカメロンも決して上品とは言い難い大衆小説だが、もしかしたらこちらは更に難易度が上がるかも知れない。時代の上に、地域、文化、宗教も異なるからだ。そこでは当たり前とされていることが、私たちにとっては当たり前ではないからだ。従って、古典に限らず、「本を読み込む」という作業には、それが書かれた背景や著者の思想を汲み取ることが含まれる。

これはより大局的な見方で語れば「コミュニケーション能力」そのものでもある。日本人は「あ・うん」で伝わるなどと言うが、なぜそれが可能なのか?互いに当たり前を共有しているからである。しかしそれは重要な局面において、言葉を用いて互いの気持ちや利害を一致させることを放棄し、忖度と呼ばれるべきものに頼ってナアナアに済ませることと表裏を成すことでもある。忖度も大いに歓迎されるべきことには違いないが、一方で、自分とまったく異なる価値観や文化的背景を持った人間と折り合うことも、それと同じくらい重要なことなのではないだろうか。そしてそれは結局のところ、私たち自身を守ることでもある。

かのように本を読む、そして自分の考えを表明するということは極めて高度な作業なのだが、それが実際に学校教育で教えられるということはあまりない。全くないというわけではないのだが、それは必要最低限のものである。従って、時には「文字は読めるが文章を理解することができない」中学生以上の子供達が発生する。もちろんこれは極端な例である。しかし重要なのは、訓練なしには文章を理解する能力を身につけることは困難であるということだ。

しかしこれを集中的に訓練させられる場所が存在する。即ち文学部文学科である。ここでは上記のような「本を読むこと」そして「自分の言葉に翻訳」し、かつ「他者にそれをわかるように伝える」ことを徹底的に訓練させられるのである。これらのスキルは人間の活動において「最も基本的」で「もっとも汎用性のある」ものの内のひとつである。

文系のなにが素晴らしいか書こうとしたら読書について書くだけでこんなに長くなってしまった。あと割と上記の文は程度の差はあれ文理関係なくそうだなという気もするがそれは文系の素晴らしさを少しも損ねるものではないだろう。文学部文学科ではそのような訓練がより重点的である(はずだ、少なくとも)とだけ伝われば充分である(そもそも文理的な区別そのものに大した意味がなかったがこのまま最後まで書き切ろう)(しかしお前は文系のくせに日本語が下手だなと言われればまあそれはその通りだし諸兄の貴重な時間を私の駄文で潰してしまうことは世界にとっての損失であるので是非ここで読むのをやめて生産的な活動に従事していただきたい)

 

文系は数字が読めない&プログラミングができないのか

これは一言で済む話である。文系でも数字を読み、プログラミングをする。あまり文系のイメージではないかも知れないが、大体どんな分野でも計量系の領域というのは存在していて、そこでは統計学も使うし、統計学を使うためのソフトやプログラミング言語も使う。
私なぞは数字とプログラミングがあまりにも苦手だったために偏執的に追求し続けた挙句、気がついたらエンジニアになってビッグデータを分析するハメになっていた。重ねていうが私の元々の研究領域は哲学であり、それも神学に近いものだ。


文系だから数字が読めないだのプログラミングができないだの言っているのは(やらない、ではなく、できないという人、それを文系であることの必然性のように語る人)、単に文系なのに文系の勉強も大して真剣にせずのらくらとし、かつできるようになろうという努力すらしなかった癖にその不甲斐なさを文系のせいにしているだけにしか聞こえない。率直に言って私はそのような人々に文系を名乗ることをやめてほしいとすら思っている。


それがなんであれ、自分自身の自発的な活動によることをあたかも自分の所属していた集団に責任があるかのように語る行為というのは、私の感覚からすると非常に見苦しい。もっというと、私は自分の行動や人生について責任を放棄するような発言を尊重する気は無い(しかしそうした弱さは誰しもが持っているものだとも勿論知っているし、まあそう言いたくなることがあったんだろう程度には思っている)

 

なぜエンジニアに転向したか

ここまでで私がいかに学問を愛していたか伝わっていれば幸いである。しかしなぜその私が大学を去ったか。理由は複合的であるがここでは一点だけ述べることにする。
かつて私は非常に大規模な市場調査に関わっていた。心理学実験などでは参加を募って僅かながら謝金を渡すこともあるが、市場調査は場合によっては対象を「まったくランダム」に選び出し「無償で」協力してもらうものである。また、予算が莫大であるからこそアンケート用紙も分厚い。
このような大規模な調査では年長のすでに実績のある研究者が取り仕切るものである。年に数回の全体会議である若手の研究者が質問した。「その研究の意義はなんですか?」それに対して、すでに実績のある、年長の、権威ある、尊敬すべき、素晴らしき研究者はこう答えた。「こんなことは私たちが考える必要はない」
若手の研究者はもうそれ以上なにも言わなかった。彼がその後その研究会に参加することはなかった。
この件について、私はどちらの側も肯定したい。それは当人達もそうだったろう。それはどちらも等しく尊重すべき立場だった。しかし私自身としては、研究の意義を問うた若手研究者の方に共感せざるを得なかった。研究者がまったく自分の好きで研究をやる分には構わない。しかしこれに限って言えば、何万人という人に無償で協力してもらいその分のーーおそらく我々に関係しなければ有効に使えたであろうーー時間を奪っているのである。

そうであるなら何故疑問を感じずにいられるだろうか。私は明確に、そこに”社会的意義が存在していなければならない”と感じた。したがって私は研究を一旦やめ、実務家に転向した。

 

意義を語ることに消極的な研究者

私は「研究の意義を考える必要はない」という立場を必ずしも否定するつもりはない。しかし私が違和感を覚えたのは、それにしてもそうした立場の人が多いのではないかということだった。特に中には「意義などを考えること自体が不遜」とでも言いたげな人もいるようだった。
かと思えば国立文系の予算が減らされるとなると突然に「学問の価値を理解しない国」を批判する人もいる。にも関わらず文系擁護の言葉とは「役に立たないかもしれないけど、意義深い」などとなんだか消極的ですらあるようである。私がアンチ文系であるならこのような言説は論点をズラしたものに聞こえるだろう。

 

学問は役に立つ

奥ゆかしい研究者の皆さんはどうやら声高に主張することが恥ずかしいようなので代わりに研究者でもなんでもない私が言おう。学問は(ここではあえて文理のような区別はつけない。もとより意味のない区別だ)役に立つ。ものすごく役に立つ。周囲を見渡せばそれは明確である。


例えばあなた方は日々偏差値だのIQだのに一喜一憂しているではないか。または、経営者は雇用者の生産性を上げるためには、鞭ではなく人間同士の安定した関係性が大事だということを知っている。あるいは、なにもかもがやがて機械化され、やがて労働者とはアナリストに集約されていくことは半世紀も前に予言されていた。


これらはほんの数例に過ぎない。しかしどれも示唆に富み、しかも私たちの生活や人生に極めて密接に関係していることがわかるだろう。私たちの生活ーー人間的で、文明的で、進歩的なーーは初めから神様に用意されていたものではない。過去の研究者や活動家の小さな積み重ねの上にあるものだ。そこでは時に人は命を落としたし、あるいは逆に殺すこともあっただろう。自分たちの生活がそうした積み重ねの上にあることを都合よく忘れ、利得にだけフリーライドし、それを貶めるような態度を私は容認できない。

 

私にとっては学問が役に立つなど自明のことである。あまりにも自明なのでなぜそれが疑問視されるのか自体が不可解なくらいだ。一方でそれらは、テニスだったり、靴を磨くことだったり、皿を洗うことだったり、そうした活動と比較し、有意に哲学的意義があるとは思っていない。または、それらに劣っているとも思っていない。一人の人間が真剣に取り組んだ先には、それがどんな活動であれ必ず哲学が生まれるものである。例えば靴を10000足磨いた時、そこで初めて人生の活路が自ずと開けることがあるだろう。


それが私にとっては学問であった。学問をここまで引き継いできた人々の営為に私は感謝する。